●日本のジュゴン●
日本のジュゴンを絶滅から救うために
 海に棲む草食性の哺乳類ジュゴンは熱帯と亜熱帯の沿岸に生息しています。日本に唯一生息する海牛目(カイギュウ モク)であり、かつては琉球諸島の各地の沿岸に生息していましたが、現在は沖縄県の東海岸におよそ50頭足らずの ごく少数の地域個体群が生き残っているだけと推定されています。同じ海牛目には、 汽水域に棲むマナティー科マナティー属のマナティー類がいますが、日本には生息 していません。
 約10万頭いると言われている世界のジュゴンは、ほとんどがオーストラリアの東北海岸にすんでいます。沖縄のジュゴンは、世界でも一番北に棲んでいる希少な個体群です。食物の海草(うみくさ)で南西諸島で確認されているのはウミジグサやマツバウミジグサ、コアマモ、ベニアマモ、ウミショウブ、リュウキュウスガモ 、リュウキュウアマモ、ウミヒルモ、ボウバアマモなどです。

沖縄のジュゴンの歴史
 かつてジュゴンは沖縄ではザン、ジャン、アカングワーイュー、ヨナマタなどと呼ばれ地元の人々にとってなじみ深い生きものだったようです。
琉球諸島の北は奄美大島から八重山地方(西表島、石垣島)まで広く分布し、貴重な保存食や信仰物として琉球王朝にも献上されていました。漁師の網にかかったジュゴンは、ヒトゥーと呼ばれたイルカやクジラと同じように食べる文化がありましたが、一方では津波を予言したり、引き起こしたりする「海の神」としておそれ深い存在だったようです。
 しかし、太平洋戦争後の食糧難の時代にダイナマイトを使った漁によって大量に捕獲さ れ、その数を激減させ戦後は絶滅したと考えられていました。時々、漁師の網にかかる事 もあったようですが、天然記念物ということでやっかいな事として、そのまま放置された り、食べてしまったりと、公にされずに闇に葬り去られた存在でした。

 1995年9月アメリカ軍人による少女のレイプ事件を契機に盛り上がった沖縄県民の基地返還運動の中で、当時のクリントン大統領と橋本首相が翌年4月に今後5年から10年の間に、宜野湾市にある普天間基地の返還を約束、SACO(日米合同特別行動委員会:95年11月、日米政府によって設立)の勧告により、その県内の移転先に名護市東海岸の小さな集落・辺野古の沖が移設候補地として浮かび上がり、注目を浴びるようになったのです。マスコミの注目を浴びた東海岸にジュゴンの姿が目撃され始めた97年前後に当時三重大学の教授であった海生哺乳類の研究者である粕谷俊雄教授率いる「ジュゴン研究会」や、地元のダイバーや教育者が中心の民間の研究機関「LOVEジュゴンネットワーク」(現在の「ジュゴンネットワーク沖縄」)による地道な調査が開始され、98年1月18日に日本テレビ那覇支局によって日本で初めての野生のジュゴンの撮影がされ、その生存が公に確認されたのです。もっとも以前から、辺野古のキャンプ・シュワブ(米軍基地)あたりの兵士はヘリコプターや飛行機から目撃で東海岸にはアザラシのような生きものがいるそうだという話はあったようです。
  
  2002年何と九州の熊本の牛深湾にジュゴンが現れて大騒ぎになりました。
  10月4日に定置網にかかった1頭のジュゴンが発見され幸い生きたまま放流されました。
  その後10日に1頭のオスのジュゴンの死骸が発見されました。けれども、その後もジュゴンの目視情報もあり、2頭並んで泳いでいたなどという未確認情報もあり、いったい何頭のジュゴンが来たのか、どこから、なぜやって来たのかは今だ謎です。さすがに11月を過ぎたら水温が20度を切るので、例え食物の藻場があっても生き延びる可能性はないので、目視情報も消えました。たぶん昨年は沖縄には大きな台風がひんぱんに発生したので、黒潮にのって流されて来たのではないかと私たちは考えています。
 
  通年生息し、繁殖が確認されているのは残念ながら米軍基地建設が予定される沖縄島東海岸の辺野古沖を中心にした海域のみです。日米安保体制の中で「北限のジュゴン」にとって重要な繁殖地を米軍飛行場の建設によって失うことは、私たち自身が彼らの絶滅を傍観した事として自然保護の歴史に大きな汚点を残すことになるでしょう。
  日本の希少なジュゴンを絶滅から救うことができるのか否かいま、まさに問われているのです。






イラスト:益山典子さん